追悼文

 木村先生が亡くなってしばらくして茨木に引っ越した。淀川をこえれば枚方にも近く、バスも出ているから木村先生が入院している星ヶ丘病院にも行きやすいなと思ったら、もう星ヶ丘の病院に行くこともないのだとふと気づいて、まだぼんやりしたままでいる。


 大学生のとき「社会的コミュニケーション」の講義で木村先生と出会い、ソシオン理論を知った。黒板に犬の絵を描き「おあずけ」の理論を前のめりに説明する木村先生の講義は、わけがわからないながらもつられて興奮が転移するような勢いがあり、講義後に図書館へ行き「社会学部紀要」のソシオン理論の論文を読んで、そこに出てきたソシオンのグラフがまるで曼陀羅のように見えてあまりの衝撃に思わず笑ってしまった。


 その後他大学の大学院へ行きしばらくしてはじめて書いた論文を送ったところ、研究会に誘われてソシオン理論の共同研究がはじまった。研究室で、関大前のスパゲティ屋で、河原町のおでん屋で、湯谷の家で、関大のセミナーハウス(飛鳥、彦根、加茂)で延々と議論し、いっしょに論文を書かせてもらった。


 木村先生のライフワークだったソシオン理論には、人間の無限のやさしさと底知れぬ暗さを同時にとらえるまなざしがあったと思う。独自の用語と幾何学的な図形を駆使する点で一見わかりにくくも思えるけれど、ぼくは研究だけでなく講義などでソシオンの図式を使って説明するときの学生たちの反応のよさに、これは文字通り使える理論だと実感した(みんなソシオン理論を使い自分の日常的な体験を社会学的に考察する見事なレポートを書くのです!)。


 ここ数年は愛と暴力のソシオン理論をいっしょに書こうと議論してはなかなか書けないままだった。木村先生によると、愛と暴力のソシオン理論の結論部分には「笑い」の理論が組み込まれるはずだった。笑いは、極限的なリアリティの沸騰を瞬間的にキャンセルし、自他を呪縛するルサンチマンイデオロギーを吹き飛ばす。青年時代に「充ちた意味」を探求していたという木村先生がたどりついたのは、「豊かな無」だった。


 ひとはなぜ生きるのか、なぜ殺し合うのか、希望のありかはどこか。その突破口が「笑い」にあるはずだ、という仮説は魅力的で、そんなことを考えているとまた木村先生と議論したくもなるのだけれど。つぎからつぎへとおもしろいことを思いついてはあれやれこれやれという木村先生に、まわりのぼくらはふりまわされっぱなしでした。それを懐かしむほどにはまだ実感が足りず、だからしばらくはぼんやりしたままなんだろうと思います。


渡邊太