第26回日本解放社会学会大会

テーマ部会?(関西学院大学E号館102号室)

テーマ:ジェンダーセクシュアリティ研究とアイデンティティ・ポリティクス
司会 風間孝(中京大学
 
報告:
戸梶民夫(京都大学
被差別者アイデンティティの語りの変化
――在阪性的少数者グループの参与観察から
堀江有里(立命館大学
アイデンティティ〉の共有と抵抗の不可能性
――ある性的少数者コミュニティの事例から
菊地夏野(名古屋市立大学)
フェミニズム理論におけるアイデンティティの限界と可能性
――バトラー/コーネル/スピヴァク

コメンテーター:
 高橋慎一
 渡邊太(大阪大学

渡邊太「〈スユ+ノモ〉とわたし(たち): コミューン主義を思考するために」『日本学報』29号、161-174頁

〈スユ+ノモ〉とは何か。研究コミューン。共に研究するための場所であり運動であるらしい。研究と場所、運動と場所、共に研究すること、共に時間を過ごすこと、共に生活をすること、共に考えること、共に決断すること等々。ここ数年のあいだ、自分自身もいろいろな動きのなかに身を投じるなかで、これらの主題について考えることが必然的と思える状況になりつつあって、ちょうど2009年の3月に幸いにも〈スユ+ノモ〉を訪ねる機会を得ることができ、大いに刺激を受けたのだった。……

渡邊太, 2010, 解説:木村洋二「笑いの統一理論」, 『笑いの科学』2号, pp.2-8

笑いによるリアリティ・キャンセルは、たまたま間主観的に構成されたひとつの世界を唯一不変の現実と信じて疑わない《物象化した精神》を打ち砕き、世界を転覆すると同時にカセクシス出力の自在性を高め、「より自由でしなやかな世界構成への生理学的条件を準備する」(木村, 1983: 74)ものである。……

渡邊太, 2010, 笑いと未知なるものへの愛―バタイユの内的体験と木村理論を手がかりとして, 『笑いの科学』2号, pp.12-19

G・バタイユは、自分の哲学は笑いの哲学だといった(Bataille, 1976=1999)。極限的な笑いの体験のうちに極端なまでの自由を直感したバタイユは、笑いこそが諸世界の底、事物の根源に到達する手段であることを理解した。バタイユの内的体験は、恍惚のうちに自己を消失し、理性の彼方まで突き進む一種の神秘体験であった。それは、シャーマニズムの憑依や忘我、トランス状態にも近接するような変性意識の体験だったと考えられる。だが、なぜ笑いなのか。なぜバタイユは笑いのうちに事物の根源を見いだしたのか。……

木村洋二先生を偲ぶ会

木村洋二先生を偲ぶ会 ご案内

新聞報道等ですでにご存知のこととは思いますが、関西大学木村洋二教授が昨年8月19日に逝去されました。
告別の儀式等はご遺族のご意志により、近親者の方々の御許でつつがなく執り行われました。謹んでご冥福をお祈りいたします。このたび、先生のお人柄やこれまでのご功績を偲び、思い出を語り合う会を準備いたしました。ゆかりある多くの方々にお集まり頂き、先生の喜ばれるような笑顔あふれる会にしたいと考えております。是非ともご参加頂きたくご案内申し上げます。

2010年1月     

呼びかけ人代表 関西大学教授 竹内 洋


■日時・場所等

日 時 : 2010年3月7日(日) 14:30 〜 18:00



受 付  14:30 〜(お越し下さった方から献花)
第1部  15:00 〜 16:00 セレモニー
第2部  16:00 〜 18:00 立食会



場 所 : 関西大学100周年記念会館
(阪急千里線関大前駅下車徒歩7分
〒564−8680 大阪府吹田市山手町3−3−35



会 費 : 一般1万円 学生3千円 (献花代、資料代、粗肴料として)



記念品として、『木村先生への追悼文集』、木村先生監修の新刊『笑いを科学する』(新曜社)、追悼特集が掲載された論集『笑いの科学Vol.2』(松籟社)をお配りする予定です。なお、当日ご欠席の方で準会費(7千円)をお振込頂いた方には、後日、偲ぶ会で配布する記念品をお送りいたします。また、本会にご協力頂ける方は1口5千円からのご協力金を受け付けております。ご協力金は献花など本会の運営にあてさせて頂きます。お寄せ頂ける方は、本会のメールアドレス宛にお問い合わせ下さい。

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追悼文

 木村先生が亡くなってしばらくして茨木に引っ越した。淀川をこえれば枚方にも近く、バスも出ているから木村先生が入院している星ヶ丘病院にも行きやすいなと思ったら、もう星ヶ丘の病院に行くこともないのだとふと気づいて、まだぼんやりしたままでいる。


 大学生のとき「社会的コミュニケーション」の講義で木村先生と出会い、ソシオン理論を知った。黒板に犬の絵を描き「おあずけ」の理論を前のめりに説明する木村先生の講義は、わけがわからないながらもつられて興奮が転移するような勢いがあり、講義後に図書館へ行き「社会学部紀要」のソシオン理論の論文を読んで、そこに出てきたソシオンのグラフがまるで曼陀羅のように見えてあまりの衝撃に思わず笑ってしまった。


 その後他大学の大学院へ行きしばらくしてはじめて書いた論文を送ったところ、研究会に誘われてソシオン理論の共同研究がはじまった。研究室で、関大前のスパゲティ屋で、河原町のおでん屋で、湯谷の家で、関大のセミナーハウス(飛鳥、彦根、加茂)で延々と議論し、いっしょに論文を書かせてもらった。


 木村先生のライフワークだったソシオン理論には、人間の無限のやさしさと底知れぬ暗さを同時にとらえるまなざしがあったと思う。独自の用語と幾何学的な図形を駆使する点で一見わかりにくくも思えるけれど、ぼくは研究だけでなく講義などでソシオンの図式を使って説明するときの学生たちの反応のよさに、これは文字通り使える理論だと実感した(みんなソシオン理論を使い自分の日常的な体験を社会学的に考察する見事なレポートを書くのです!)。


 ここ数年は愛と暴力のソシオン理論をいっしょに書こうと議論してはなかなか書けないままだった。木村先生によると、愛と暴力のソシオン理論の結論部分には「笑い」の理論が組み込まれるはずだった。笑いは、極限的なリアリティの沸騰を瞬間的にキャンセルし、自他を呪縛するルサンチマンイデオロギーを吹き飛ばす。青年時代に「充ちた意味」を探求していたという木村先生がたどりついたのは、「豊かな無」だった。


 ひとはなぜ生きるのか、なぜ殺し合うのか、希望のありかはどこか。その突破口が「笑い」にあるはずだ、という仮説は魅力的で、そんなことを考えているとまた木村先生と議論したくもなるのだけれど。つぎからつぎへとおもしろいことを思いついてはあれやれこれやれという木村先生に、まわりのぼくらはふりまわされっぱなしでした。それを懐かしむほどにはまだ実感が足りず、だからしばらくはぼんやりしたままなんだろうと思います。


渡邊太